松永敦ストーリー vol.3
芸能の道を目指した大学時代
そんなふうに毎日を過ごしていると、だんだん歌や音楽が上手になってきます。下手は下手なりにピアノを弾き、なんとか歌が歌えるようになってきます。
そうこうしているあいだに大学受験のシーズンがやってきました。
芸能の道に進むか医学の道に進むかで真剣に悩みましたが、芸能の道だけで生きていく自信がなかったことと、家族が医者家族だということで、3年になってからはとりあえず医学部に行く努力をしはじめました。
そしてなんとか医学部に入ったあとはクラブ活動です。
大学では軽音楽部に入り、バンドで歌うようになりました。
ところが、いままで独学でやってきた歌です。いつのまにか自分の声には誰かの変なモノマネや歌い方の癖がつき、どうにもこうにもならなくなっていました。
それで当時、音楽の専門学校としてはとても定評のあった『京都アンスクール』という学校に、大学に行くかたわら通うようになりました。
そこで出会ったのが生涯の恩師ともいえる亀渕友香先生でした。
日本ではいわずと知れた『ゴスペルの女王』であり、名だたる歌手を育てた名ボイストレーナーです。亀渕先生のおかげで私の声は徐々によくなっていきましたが、あまり優秀ではなかった私は自分で作ってしまった変な癖を取るのに少なくとも2年は費やしてしまいました。
そんな2年間が過ぎ、先生のご指導と練習の甲斐あってかミュージカルやお芝居のオーディションにも通るようになり、ますます人前でパフォーマンスするのが楽しくなって、医学部に通いながらも将来どうしようかと迷い続けていた日々のことです。
ある日、テレビのバラエティー番組のマスコットボーイを選ぶオーディションを受け、そのカメラリハーサルで演技をする自分の姿を見せてもらっていたときです。
画面に映る自分を見て、「ああ、自分はこの業界には向いてない」と悟ったのでした。
たしかにちょっと面白いことやユニークな演技はできるかもしれないけれど、主役を張れるだけの実力や器は自分にはない。
とすれば、自分が歌ったり踊ったりするよりは、そういうことを一生の生業として頑張っている人たちを、医師としてケアさせていただく裏方にまわろう。
それは長年、迷い続けた芸能の道への見きりがつき、医師として前に進む決意がやっと固まりはじめたときでもありました。